1. 序章──再び“勝利の血”が流れ出す
1989年、スカイラインGT-Rの名が15年ぶりに復活した。
だが、それは単なるカムバックではなかった。
開発陣が最初に掲げたゴールは、「グループAで勝つためのクルマを作る」という、明確すぎる目標だった。
誕生からすでに“勝つため”に設計されていたR32。
そのボディの下には、未来を先取りした電子制御システム「ATTESA E-TS」と、高出力ツインターボエンジン「RB26DETT」が収められていた。
彼らの狙いは、机上の数値ではなく“実際の勝利”。
エンジニアたちは市販車の皮を被ったレーシングカーを造り上げたのだ。
そして1989年、全日本ツーリングカー選手権(JTC)に姿を現したR32は、まるで長い眠りから覚めた獣のように、レース界を震撼させた。

2. 無敗伝説──29戦29勝の真実
R32がJTCでデビューを果たしたのは1990年。
ドライバーは星野一義、長谷見昌弘、そしてNISMO監修のワークス体制。
この年、初参戦にもかかわらず**全戦優勝・勝率100%**という前代未聞の記録を叩き出す。
「強すぎて、他がレースにならない。」
当時のライバルであったフォード・シエラRS500のメカニックが、取材で苦笑混じりに語っている。
R32は直線での加速だけでなく、コーナリングでも圧倒的だった。
4WDによるトラクション制御が、他車にはない安定感と攻撃性を両立していたのである。
特に印象的だったのが、1990年の富士スピードウェイ。
雨に濡れた1コーナーを、他のマシンが慎重に抜ける中、R32はわずかにスロットルを戻しただけで滑らかに旋回。
それを見た観客は息を呑んだ。
「あれは人間が操作しているのか?」と。
その後もGT-Rは1993年まで全29戦連続優勝を達成。
JTCの歴史において、この記録を破ったマシンは存在しない。
あまりに支配的すぎたため、1994年にはGT-Rを排除するためのレギュレーション改訂が行われたほどだ。
つまり、R32は“勝ちすぎてレースのルールを変えてしまった”のである。
3. 豪州・バサースト1000──異国の地で刻まれた誇り
R32の伝説は、日本国内にとどまらなかった。
1991年、日産オーストラリアがグループA仕様のR32を投入し、世界最長クラスのツーリング耐久レース「バサースト1000(Mount Panorama Circuit)」に挑戦した。
当初、地元メディアは懐疑的だった。
「日本車に、この過酷なコースは無理だろう」と。
しかし、実際に走り出したGT-Rは、地元のV8フォード・ホールデン勢を軽々と追い抜いていく。
その速さは圧倒的だった。
コース終盤のコンロッド・ストレートでは300km/hに迫るトップスピード、
そして上り区間では、四輪駆動システムがタイヤを食いちぎるようにグリップした。
結果──1991年・1992年と連覇達成。
現地実況はレース終盤、思わずこう叫んだ。
“The Skyline has destroyed everything on the mountain!”
(スカイラインが、この山のすべてを打ち砕いた!)
だがその圧倒的支配は、同時に敵を増やすことにもなった。
観客の中には「日本車にバサーストを奪われた」と怒りをあらわにする者もいた。
その結果、翌年からGT-Rの参加を制限するグループAルールの改定が行われ、
R32の姿はオーストラリアのレースシーンから姿を消した。
それでも――
あの山の空気を切り裂いたRB26のターボサウンドは、今なお多くのファンの記憶に残っている。
「バサーストで最も印象的だったマシン」として、
地元紙『Motorsport Australia』が2019年に発表したランキングで、R32は堂々の1位に選ばれている。
4. 裏方たちの戦い──ピットで流れた汗と涙
R32の“無敗神話”の裏には、名もなきエンジニアとメカニックたちの努力があった。
レースのたびに彼らはエンジンを完全に分解し、磨き、組み直した。
なぜなら、レースごとに“勝てるGT-R”を再構築する必要があったからだ。
あるNISMOメカニックは語る。
「RB26は確かにタフだった。でも油温が1℃違うだけで、挙動も変わる。
ドライバーの感覚を信じて、1mm単位でセッティングを詰める。それが俺たちの戦いだった。」
また、星野一義はレース後にこう語っている。
「GT-Rは、ドライバーがミスをすればすぐ叱ってくる。
でも、信じて踏めば必ず応えてくれる。
あれほど“仲間”だと思えたマシンは他にない。」
R32のチームは、機械を信じ、人間の限界を超えようとした。
それは単なる“勝利のための努力”ではなく、
“完璧な連携”というアートに近いものだった。
5. 世界が見た“制御の哲学”
R32が世界のレース界に与えた影響は、単なる速さ以上のものだった。
それは「電子制御がレーシングカーを支配する時代の幕開け」を告げたという点だ。
当時、ほとんどのマシンがアナログな駆動系を採用していた中、
GT-Rだけはトルク配分を電子的に制御していた。
ATTESA E-TSが0.02秒ごとにデータを解析し、前後輪の駆動を瞬時に調整。
結果、スライドすることなく、まるで軌道を描くように走り抜けた。
海外メディア『Autocar』は1992年にこう評した。
“GT-R is not just a car, it’s a glimpse into the future of motorsport.”
(GT-Rは単なる車ではない。モータースポーツの未来を覗かせる存在だ。)
R32の成功をきっかけに、欧州メーカーも電子制御四駆の研究を急速に進めた。
のちのアウディ・クワトロEvoやランエボ、インプレッサWRXの発展にも、R32の影響が色濃く残っている。
6. 終章──勝利という宿命を背負って
R32スカイラインGT-Rが残した記録は、数字では語り尽くせない。
29戦29勝という完全勝利の裏には、無数のテスト走行、壊れたパーツ、徹夜の整備、そして信じ抜いた人々がいた。
このクルマの凄みは、**「勝つこと」ではなく「勝ち続けること」**にあった。
それは、どんなレースでも冷静に、完璧に、そして美しく戦う姿勢だ。
1993年、GT-RがGr.Aから姿を消したとき、
サーキットの誰もが静かに拍手を送った。
それは敗者の嘆きではなく、
“ひとつの時代が終わった”という敬意の拍手だった。
「GT-Rがいた時代を走れたことを、誇りに思う。」
──元フォードRS500ドライバーの言葉。
あの時代のGT-Rは、単なるマシンではなく、
人々の夢そのものだった。
機械と人間が共に作り上げた“勝利の哲学”。
その鼓動はいまも、R35、そして次世代へと受け継がれている。
💡関連動画💡








