RB26DETT。
ATTESA E-TS。
4輪マルチリンク。
そして「GT-R」の復活。
R32スカイラインGT-R、型式BNR32を構成するメカニズムには、ひとつの共通点がある。
最初からレースが見えていた。
市販スポーツカーを作ってから「これでレースにも出よう」と考えたのではない。
狙っていたのは、当時のグループA。
NISMOの公式資料には、R32 GT-Rの開発目標として「究極のロードゴーイングカー」であると同時に、グループAの世界選手権レースで総合優勝できるポテンシャルを持たせることが掲げられていたと記録されている。
だから2.6Lになった。
だからツインターボになった。
だから電子制御4WDが必要になった。
R32のスペック表は、実は1980年代後半の日産が書いた「勝つための方程式」なのである。
16年間眠っていた「GT-R」を復活させる重圧
R32型スカイラインが登場したとき、GT-Rという名前は長い眠りについていた。
先代GT-Rの生産終了から16年。
日産は8代目スカイラインで、ついにその名前を復活させる。
1989年5月にR32スカイラインが発表され、GT-Rは同年8月に発売された。日産ヘリテージコレクションにも、16年ぶりにGT-Rが復活したことが記録されている。
しかし、「GT-R」のエンブレムを貼ればGT-Rになるわけではない。
初代GT-Rにはモータースポーツで積み上げた歴史があった。
復活させる以上、
速いだけでは足りない。勝たなければならない。
NISMOでR32のレース仕様開発に携わった亀井泰治氏も、GT-Rの意義について「レースで勝つ」ことだったと回顧している。
この時点で、R32 GT-Rの運命はほぼ決まっていた。
最初の構想は「500ps以上のFR」だった
R32 GT-Rといえば4WD。
今ではその組み合わせが当然に思える。
しかし開発初期から電子制御4WDに決まっていたわけではない。
NISMOの公式ヒストリーによれば、当初の構想は、
500ps以上を発生する軽量FR。
かなり刺激的だ。
フロントに強烈なターボエンジンを積み、後輪だけで駆動する。
しかし、実際にグループAを戦っていたNISMO側から現実的な問題が突き付けられる。
グループAでは排気量によって使用できるタイヤサイズが制限されていた。
つまり、
パワーだけ上げても、それを受け止めるタイヤを無制限に太くできない。
NISMOからは、これ以上パワーを上げれば2WDでは制御できないという意見が出た。
そこで開発の方向が大きく変わる。
「600psを四輪で使う」という発想
FRで500ps超。
そこから議論を重ね、日産が選んだ方向はさらに過激だった。
600ps以上+電子制御トルクスプリット4WD。
これが後のR32 GT-Rを決定づける。
単純なフルタイム4WDではない。
必要に応じて前輪にも駆動力を配分する、
ATTESA E-TS。
通常のFR的な旋回感覚を残しながら、強大なパワーを路面へ伝えるためのシステムだった。
市販R32 GT-RではRB26DETTが280PSを発生し、ATTESA E-TSと組み合わされた。日産自身も、この電子制御トルクスプリット4WDをR32の重要な技術として記録している。
R32の4WDは、
「雪道に強くするため」
だけの装備ではない。
レース用エンジンの巨大な出力を、タイヤ4本で地面へ叩き込むための回答だった。
なぜRB26は「2.6L」なのか?
R32最大の謎の一つがここだ。
RB26DETT。
排気量は2,568cc。
なぜ2.5Lでも3.0Lでもなく、
2.6Lなのか。
答えはグループAのレギュレーションにある。
ターボエンジンは、排気量をそのままクラス分けに使うわけではなかった。
過給エンジンには換算係数が掛けられる。
さらに排気量区分によって最低重量やタイヤ幅が変わる。
NISMOによれば、当時の主な区分には3.5L以下、4.0L以下、4.5L以下、5.0L以下などがあり、4WD化による重量増も考慮して、
最低重量1260kgの区分を狙える2.6Lターボ
という結論に至った。
つまりRB26の「26」は、単なる商品企画上の数字ではない。
レース規則を電卓で叩いて導き出した排気量だった。
ここがR32最大の開発トリビアだ。
RB26DETTは「280PSのエンジン」としてだけ設計されたわけではない
市販R32 GT-Rの最高出力は、
280PS/6,800rpm。
最大トルクは、
36.0kgm/4,400rpm。
日産公式の1989年型車両データにも、この数値が記録されている。
しかしRB26DETTの設計背景を知ると、280PSという数字だけでは本質が見えない。
レース仕様では、はるかに大きな出力が想定されていた。
実際、日産ヘリテージコレクションに保存される1990年グループA仕様R32は、
550PS/7,600rpm。
最大トルクは50.0kgm。
競技仕様になると、市販車とはまったく別の領域へ入っていた。
NISMOの資料では、開発段階で600PS以上を想定した構想が語られている。
つまりRB26DETTは、
市販状態の280PSだけを成立させればいいエンジンではなかった。
競技で巨大なパワーを発生させることまで視野に入れて生まれたのである。
市販車とレース仕様ではタービンを変えるという決断
ただし、ここで難題が発生する。
レースで600PS級を狙える巨大なターボを、市販車にそのまま付けたらどうなるか。
レスポンスが悪くなる。
低回転域では扱いにくい。
日常で乗る「究極のロードゴーイングカー」として成立しにくい。
そこで日産は、市販車と競技用で考え方を分けた。
標準GT-Rには、
レスポンスを重視したセラミックタービン。
一方、グループA向けに必要な大容量ターボチャージャーは、エボリューションモデルのGT-R NISMOへ採用する。
NISMOの公式資料でも、この使い分けは「日常使い」と「600PS以上を可能にする競技性能」を両立させるためだったと説明されている。
ここが巧妙だ。
R32はレーシングカーの公道版ではある。
しかし、
公道で乗りにくくても構わないレーシングカーではない。
「ロードゴーイング」という言葉にも本気だった。
ATTESA E-TSは「曲がる4WD」を作るための仕掛けだった
当時のスポーツカー好きにとって、4WDには重量増というイメージもあった。
軽量FRこそスポーツカー。
そんな価値観が強い時代だ。
そこへ日産は、GT-Rを4WDで復活させた。
しかも固定的に四輪へ駆動力を送るのではなく、
電子制御によって前後トルク配分を変える。
これがATTESA E-TSだった。
R32の面白さは、4WDのトラクションを得ながらFR的なドライビングフィールも狙ったところにある。
後輪を主体に走り、必要に応じて前輪を働かせる。
強大なRB26の出力を受け止めながら、コーナリングまで成立させる。
「4WDだから安定する」ではなく、「速く曲がって立ち上がるため4WDを使う」。
この発想がR32を単なる大馬力マシンから引き離した。
4輪マルチリンクまで投入された
R32 GT-Rのシャシーには、
前後マルチリンクサスペンション
が採用された。
日産の公式諸元でも前後ともマルチリンクと記録されている。
これも重要だ。
RB26DETTだけがR32を速くしたわけではない。
大パワーを出す。
ATTESA E-TSで路面へ伝える。
そして4輪マルチリンクでタイヤを働かせる。
エンジンだけではなく、
車体全体をひとつのシステムとして速くする。
後のGT-Rにも通じる考え方が、すでにBNR32で完成しつつあった。
1989年の発表時点で「レースに出ます」と宣言していた
R32 GT-Rがどれだけ競技を意識していたかを象徴するエピソードがある。
NISMOの記録によれば、1989年5月にR32スカイラインが発表された際、GT-Rを同年8月に発売するだけでなく、
1990年からグループAへ参戦することまで発表された。
しかも発表会場にはグループA仕様GT-Rまで展示されたという。
市販車発表の横に、
「これでレースをやります」
というマシンがいる。
開発思想をこれほど分かりやすく示す光景もない。
発表後には富士スピードウェイでシェイクダウンテストが始まった。
GT-Rはショールームへ向かうのと同時に、
サーキットへ向かっていた。
GT-R NISMOは「限定車」以上の意味を持っていた
現在では「NISMO」という名前を聞けば高性能グレードを想像する。
しかしR32 GT-R NISMOには、もっと直接的な役割があった。
ホモロゲーション。
グループAで使用したい部品や仕様を競技で認めてもらうためのエボリューションモデルだった。
1990年2月22日にBNR32 GT-R NISMOが発表。
2月28日にFIA公認。
3月11日に発売。
そしてグループA開幕戦は3月17~18日。
NISMO公式ヒストリーを見ると、驚くほどタイトなスケジュールだったことが分かる。
つまりGT-R NISMOは、
「ちょっと豪華な特別仕様車」ではない。
レースで勝つために存在する市販車だった。
そして本当に勝ってしまった
ここから先は開発秘話というより、「答え合わせ」である。
R32 GT-Rは1990年3月、全日本ツーリングカー選手権へ投入された。
開幕戦で勝利。
そのまま1993年にグループA選手権が終了するまで、
29戦29勝。
日産ヘリテージコレクションにも、この4シーズン全29戦を制した記録が残されている。
1990年型のカルソニックGT-Rは550PSを発生していたと日産は記録している。
さらに海外でも結果を残す。
1991年のスパ・フランコルシャン24時間ではZEXEL GT-Rが総合優勝。
日産公式資料では、服部尚貴、アンデルス・オロフソン、デビッド・ブラバムがドライブした25号車が勝利したことが確認できる。
つまり開発時に掲げた、
「グループAで世界と戦えるクルマ」
という狙いは、机上の理想論では終わらなかった。
R32の凄さは「後からレース仕様にした」のではないこと
R32 GT-Rを見ると、多くの人はまずRB26DETTに目を奪われる。
確かに名機だ。
しかしR32の本当の凄さは、エンジン単体ではない。
2.6Lという排気量。
ツインターボ。
ATTESA E-TS。
4WD。
マルチリンク。
GT-R NISMO。
それらがバラバラに選ばれたわけではない。
グループAで勝つという一点から逆算すると、すべてがつながってくる。
FRではパワーを使い切れない。
だから電子制御4WD。
4WDにすると重くなる。
だからレギュレーション上の最低重量まで考える。
タイヤ幅も欲しい。
ターボ換算排気量も計算する。
その答えが2.6L。
レースでは600PS級を狙いたい。
しかし市販車にはレスポンスも必要。
だからタービン仕様を分ける。
R32 GT-Rは、スペックを集めて作ったクルマではない。
ひとつの目的からスペックが生えてきたクルマなのである。
「GT-R復活」は懐古ではなかった
16年ぶりにGT-Rを復活させる。
普通なら過去の名車へのオマージュを前面に出したくなる。
しかしR32は、昔のGT-Rを再現しなかった。
初代GT-RのFRに固執しない。
自然吸気にも固執しない。
最新の電子制御を投入する。
ツインターボにする。
4WDにする。
つまり日産が継承したのは、
メカニズムではなく「勝つこと」だった。
だからR32は懐古趣味の復刻版にならなかった。
GT-Rという名前を1980年代末の技術で再解釈した。
そしてレースへ持ち込み、本当に勝った。
RB26DETTが名機だからR32が伝説になったのではない。
ATTESA E-TSが画期的だったからだけでもない。
「レースで勝つ」という目的に対し、エンジン排気量から駆動方式まで徹底的に逆算した。
その異様なほど明快な開発思想こそ、BNR32最大の魅力なのである。
FAQ
R32 GT-Rはなぜ2.6Lだったのですか?
グループAのターボ換算排気量、最低重量、使用可能なタイヤ幅などを考慮した結果です。NISMOによれば、4WD化による重量増も見込み、最低重量1260kgの区分を狙って2.6LターボのRB26DETTが開発されました。
R32 GT-Rは最初から4WDとして計画されていたのですか?
NISMO公式資料によれば、初期には500PS以上の軽量FRという計画もありました。しかしグループAのタイヤ規制下では2WDで大出力を制御することが難しいとの意見が出て、600PS以上と電子制御トルクスプリット4WDという方向へ発展しました。
市販R32 GT-Rは何馬力ですか?
日産公式資料ではRB26DETT型2,568cc直列6気筒ツインターボで、最高出力280PS/6,800rpm、最大トルク36.0kgm/4,400rpmです。
グループA仕様は何馬力だったのですか?
仕様や時期によって異なるため一律ではありません。日産ヘリテージコレクションの1990年型競技車両には550PS/7,600rpmと記録されています。一方、開発思想としては600PS以上への対応が検討されていました。
R32 GT-R NISMOはなぜ作られたのですか?
グループA参戦を見据えたエボリューションモデルとしてFIA公認を取得する役割がありました。標準車とは異なる競技志向の仕様が盛り込まれています。
R32 GT-Rは開発目的どおりレースで成功しましたか?
全日本ツーリングカー選手権のグループAでは1990~1993年の全29戦で勝利。さらに1991年のスパ24時間ではZEXEL GT-Rが総合優勝しています。
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